そうして、神は居なくなった。


 その場に独り残された、剣士はしばし無言で佇む。頭上の高い所で梢があるかなきかの風に揺すられ、足元に落ちた月の光のもたらす頼りない影が、さらに朧と散って溶けゆく。
 そのさまを、見るとなく見詰めた。
「いい夜ですね」
 ふいに声が掛かった。
 その方向にゆっくりと目を移すと、夜闇に丁度視界が途切れるあたり、建物のある方角から一人の人間が姿を顕した。実際は、人のような形を持っているだけでそれが確実に人間であるとは言い切れなかったが、しかし、その姿には見覚えがあった。
「抜け出してきたのか」
「あなたも」
 髪も瞳も色相が淡い。白に近しいその色は、周りに広がる暗闇の色とはけして相入れないようでいて、何故か何処かで親和している。手には特徴の挙げられない棒切れ、その先端から糸を介して繋がる、脆弱な光を閉じ込めた結晶体。鍔だけの帽子を斜めにずらした少年は、声音に親しげな色を乗せて、ふわりと剣士の前に歩み出た。
「彼らがさがしていましたよ。いけませんね、なにも言わずにいなくなるのは」
 彼ら。剣士の脳裏には、その単語からあまり間を置かずに、何人かの、騒ぎ盛りの少年達の姿が浮かび上がった。確かに、特に何も告げずに宴の席を後にしたが。
「そんな事は知らん」
 にべもなく言い捨てる。「鴨の親子でもあるまいに。俺は別に、あれらの保護者という訳では無い」
 くすくすと、少年は可笑し気に笑う。
「むこうはそうとは思っていない。皆、あなたのことが大好きなのですよ」
「関係無い」
「そうでしょうか」
 こくりと首を傾げると、肩の棒から伸びた糸と石とが、調べを同じくして左右に振れた。
「彼らがあなたを寄る辺とするのも、ひとがあなたを喝采するのも、すべてあなたの成したこと。あなたはひとの輪をつくる。そこにあなたの想いがかかわるとも、かかわらずとも」
 少年の言葉は謡うように流れ、剣士はゆっくりと目を細めて言った。
「忌ま忌ましい事だ」
 少年はまた笑い、今度は何も言わなかった。
「――そんな事を、云いに来たのか」
 剣士が尋ねる。
「まさか」
 少年は首を振った。
「叫びを、聞いたので」
「叫び?」
 訝し気に剣士が反復する。
「俺は、聞かなかったがな」
「いいえ、たしかに」
 言って少年は目を伏せる。すると、肩の後ろで微かに揺れる石の、内の光がぼんやりと明滅した。
「だれかがここで、隠しきれぬ苦しみと、こらえきれぬ哀しみとに、ちいさな叫びを漏らしていた」
 再び上げられた視線が、惑いなく剣士の瞳に合わされる。剣士もまた、それをひたりと受け止めた。
 数拍。そのまま時が過ぎる。
「…知らないな」
 先に再び口を開いたのは剣士の方だった。
「そうでしょうか?」
 少年が応える。
「少なくとも、俺に、心当は無い」
 そう言うと。それで話は終わりだとばかりに、合わせた侭の視線をふいと外した。
「そうですか」
 少年が応えた。
 先程から、まるで変わらぬそぶりで。

「それでは…それは、あなたなのではなく、
 もうひとりのほうだったのかもしれませんね」
 
 変わらぬ調子で、そう言った。
 剣士は、外した視線を、ゆるりと元に戻す。
「…もう一人」
「そう、もうひとりの」
 梢の高い箇所が、風に吹かれて揺れている。ざわめきの音に釣られて、その場所を見詰めた。
 彼の去った方角を。
「真逆」
 否定する。口元には自然と苦笑が浮かんだ。
「あれが、哀しむ?苦しむ?…戯事だな、其様な事は」
 笑みは長続きはせず、滑るように落ちて消えゆく。
「奴には、必要無いだろう」
 その筈だろう。
「いのち有ることは、苦しみと同義です」
 少年は言う。なんでもない事のように。

「かれは苦しむ。かれがいのちであるかぎり。かれは哀しむ。かれもまた、いのちであるがゆえに」

「命…」
 そうなのだろうか。
 剣士は目を閉じる。闇の中で生まれた闇の内に、彼の者を思った。
 その姿。そのことば。つい先程の、ほんの少しの邂逅と遣り取り。その中の、何処か、何処かで確かに感じた、
 瞳のなかの。
 ゆっくりと、薄闇の中に還る。少年は変わらぬ様子で目の前に立っていた。
 そもそもの初めから、気配の一つ持たぬ、その様。
「奴に」
 剣士は呟いた。空気に溶け消えるかの様な、伝える者等、何処にも居ないかの様な声音で。独り言のように。

「救いは無いのか」

 少年は、口元にだけ浮かんだ笑みを、ほんの少しだけ深くした。
 哀しそうな笑みだった。

「かれがそれを望まぬかぎりは」

 少年は言う。

「そして、それを与えられるのは、おそらく、あなただけなのでしょう」

 剣士は何も言わず、少年の、笑まぬ瞳を見詰め返した。
「神に愛されし児」
 少年の言葉には、羨望も、憐憫も、慈しみも何一つ篭らない。
 唯音として、波となり剣士の鼓膜を震わせた。
「かれにどうか、救いを」


 宵闇に群雲。木々の隙間を渡る風。
 剣士の前に少年が一人。
 瞼を閉じ、胸の前で手を組合せた。
「ぼくには何をすることもできない」
 少年は呟く。
「せめて、どうかかれがこれ以上苦しまぬよう」



「いのりを」















神に祈りを