拒絶は一言で明快だった。
 思わず受話器を叩きつけるようにして電話を切った後で、マユミは小さく後悔する。話はまだ途中だ。少なくとも続ける余地はあった。例え向こうが一言で終わらせたくとも、こちらがそうさせなければ良かったのだ。―――そうさせないようにしなければ、ならなかったのに。
 結局私もまだ子供だ。
 一瞬の激昂を堪え切れなかった。十分に予想してしかるべきだったのに。―――いつの間にか、期待が、希望が、篭ってしまっていたのか。縋り付くような。
 縋り付く?
 あいつに。
 あんな、子供に。
 なんて、馬鹿馬鹿しい―――
 ぶんぶん、と首を振る。
 大体、元々これは私には直接は関係のない話なのだ。―――冷たい言い方だが、逆に、首を突っ込んではいけない類の問題だと言える。
 他人が、深入りするべきではない。
 何しろ、これは―――
 家族の問題だから。
「マユ姉」
 ごく近い位置からの呼びかけにマユミはいつの間にか俯かせていた顔をはっと上げた。そこにいたのはチヨコだ。風土の恵みを存分に浴びて浅黒い肌に痩せた頬、造りの大きな両の瞳が、そこばかり不釣り合いな存在感を持ってこちらを見詰めている。マユミは、今はその靭さを受け止め切れずに、視線を再度板張りの床に落とした。
「電話を」チヨコはそんなマユミの態度はまるで意に介さず、幼子特有の高い調子と幼子に不似合いな落ち着きを持った声で言葉を続ける。
「していたのですか。―――あの、人に」
「そうです」
 マユミは答えた。できるだけの落ち着きを持って。せめてこの子には…本当の、子供にぐらいは、余計な心配をかけたくない。―――こんな、何てくだらない、大人の事情で。
「あの人は来るのですか」
「―――いいえ」
「そうですか」
 たいしたことはないように、なんてこともないように、言ったつもりだった。しかしチヨコは視線を開け放しの庭へと移し、少し、考え込むようなしぐさを見せる。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。いずれにしろ、その事実がどんな結果を指し示しているのかは正しく諒解してしまっているのだろう。解らないはずが、なかった。
 マユミは、今更ながらに暗がりに続く廊下の奥の、今、この家で最も多く人が集まっているであろう部屋を気にした。
 まさか、聞こえてはいないだろうが。
 電話を掛けたのはマユミの独断だ。あの部屋に居る人は…この家の主は、おそらくそれを望まない。
 望んでも、実行することは出来ないだろうから。
 意地。しがらみ。今更取り返せない行動と言動と。
 全く、本当に、くだらないと言ったらない。…そんな事が、今、この時に、一体何より大切だというのか?

 自分自身が終わろうとしている時に。

「…マユ姉」
 チヨコが口を開いた。暫く考え続けていた風である割には、その口調には特に感情の色は見えない。
 その内容も、少し唐突だった。
「ちよは、海が見たいです」







 海岸までは歩いてもほんの数分だ。しかし時刻は既に黄昏れ時、いくら陽の名残の長いこの土地でも街灯も碌にないような道を幼子一人で行かせる訳にはいかない。マユミはチヨコの細い手指を握り、引き伸ばされた二本の影を夕色に染まった地面に這わせながら、海への道程を歩いた。
 思考はつらつらと虚空をさまよう。大半は、幾度も反芻された、その回数分だけひどく不毛な内容だ。いつも、こんな風に思い続けるのはもう止めたいと何度も思っていた。
 こんな風に、想い続けるのは。
 握り返された手が緩く引かれる。顔を上げると、もう目の前が砂浜だった。
 チヨコはそのままマユミの手を離し、止める間もなくさあっと一直線に駆けてゆく。朱色を吸った白砂の浜に穿たれてゆく足跡の点。寄せる波がそれを飲み込む際で、少女ははたと足を止めた。
 そして視線はとおく水平線と、朱を飲み込む紫紺の狭間を突き通しながら。

 そこに唄が流れた。

 ここに良く似た色の、しかしここではない海に浮かんだ小さな島、少女が生まれた島の唄。
 愁いを帯びた旋律を、凛と靭く張り詰めさせて。
 まるで、海を越えよと、空をも越えよとばかりに響きゆくその声を、マユミは聞いていた。
 只、じっと、聴いていた。

 私はいつから、こんな風に唄うことを忘れてしまっていたのだろうか。
 持て余した感情と、現実の重たさに喉を詰まらせて。
 …いや。
 そんなのは――言い訳か。
 だって、この喉は、けして、潰れてしまった訳ではないのだから。

 マユミは少女に歩み寄り、流れ続ける歌声に、重ねるように自らの歌声を寄せた。
 幼く高い旋律に、時を重ねて、低く落ち着いた暖かい旋律が、包み込み、寄り添うように唱和する。
 チヨコはほんの一瞬振り返り、またすぐに視線を海の彼方へと戻した。
 空はいつしか藍に移り、半欠けの月が、その光ばかりは煌々と、海と二人を照らしていた。
 細波が足首を洗う。返しては寄せ、また返し。
 唄はなおも流れゆく。遠い何処かへ、辿り着かんと。


 聴いているか?
 聞こえているか?
 ならば聞け。
 逃げ出すな。耳を塞ぐなど、許さない。
 どうか、どうか―――






「帰って来たらどうしますか?」
「とりあえず、ビンタですね」






 私を絶望させないで。












南国月夜