少年の旅立ち








 俺のじいさんは冒険家だった。
 物心ついてからその武勇伝を聞かされ続けて育った俺は、自分もその話と同じようにいつか見知らぬどこかへ旅立つのだと、何の疑いもなく信じていた。
 しかし4才と3ヶ月の時の、ベルトの調節ができなくて引きずったリュックに大好物のピーナツ・ジャム・サンドを詰め込んだ最初の旅立ちは、母親の手によって家からわずか500メートルの地点で阻止されてしまった。律義に置き手紙で断りを入れたのがいけなかったらしい。とりあえず次は確実に気付かれない方法を取ろう、とその短過ぎる旅によって俺は学習した。
 だが、不幸にもその後親の俺への監視の目自体が厳しくなってしまったため、その教訓を生かすのに、俺は随分と長い時をかけて親の気が緩むのを気長に待たなければならなかった。そしてその内に、さらに不運なことに、親以外の障害が俺の目の前に立ちはだかることになったのだ。
 それはいわゆる、義務教育制度というやつである。俺は毎日学校へ通わなければならなくなった。
 お陰で時間的なチャンスはさらに激減した。いっそ学校なんて無視してしまえば良かったのかもしれないが、そうまでするにはその頃には、俺にとって学校というものもそれなりに重要なものになってしまっていたのだ。旅への憧憬と同じくらいに、俺には友達も大切だった。
 一日一日日常を送り。
 ふと吹いた風に、見知らぬ地へと思いを馳せる。
 そんな風に日々を過ごす内に。
 いつしか、10年の月日が流れていた。
 そして…夏の足音もそろそろ近づいたある日、降って湧いたようなチャンスが俺にもたらされたのだ。
 それは、じいさんの葬式だった。






 昼間の慌ただしさが嘘のように、見上げた我が家は夜の静寂に溶けてただ静かにそこに佇んでいる。俺は目を閉じて、暫くそのまま動かずにいた。それは今はもういない、大切な家族への哀悼だ。昼間に飽きるほどしたことではあるが、最後にもう一度。俺の人生の指針として在ってくれたことと、この大いなるチャンスを与えてくれたことへの惜しみない感謝を。
 じいさん。俺は今から旅に出ます。
 あんたが俺に繰り返し語って聞かせてくれた、昔のあんたの姿のように。
 祖父の葬式の日に家から姿を消すだなんてバチ当たりなことを息子がしたなんて、明日の朝、気付いた母さんはなんて思うかな?…まず間違いなく怒り心頭だろうな。よりによってこんな時にとは、だ。まあだからこそ隙ができるだろうとふんで今こうしているわけだが。
 だけどじいさん、あんたなら解ってくれるよな?
 だって、突然の知らせに慌てて駆け付けた俺に、もの言わぬまま語りかけたのは。
 さあ今がその時だと俺の背中を押したのは、他ならぬ、あんたなんだから。
 いつの時も俺を魅き付けてやまなかったあんたの悪戯っぽい笑みを、最後に俺は確かに見た気がするんだ…まあ、気のせいだろうけど。
 夜の空気はこの季節になっても、未だにしんと冷えて、昂揚する心に染み渡る。
 俺のこれから行く先には、果たしてどんなことが待ち受けているのだろうか。
 まだ何も、わからない。何一つ。
 だからこその冒険だ。
 俺はあんたのようになれるだろうか。自らの選んだ生き方を、例え他人から褒められるようなそれではなくとも、誇りを持って語れるような人間に。
 そして。
 いつの日か、その人生の最後の瞬間まで―――笑っていられるような、人間に。






[prologue END]









  書の森に謡うひと