暗い処を歩いている。
 それがいつからだったのか、何処まで行けばいいのか、いやその前に一体何故そうしているのかなど何もかもが皆目判らない。ただ突き上げるような焦躁だけがじりじりと身を焦がす。足を動かす。自分は何かを求めているのか。捜しているのか。何かを。
 …誰かを?







  1.

「よぉ、ハヤトじゃねえか」
「あ、先生」
 振り向く途中で自然と顔は綻んでいた。中学校の職員室、この場所で生徒を下の名前で呼んでくるのは大体一人に限られてくる。ハヤトが先生と呼んだその人物は、芝居がかった仕種でちっちっ、と人差し指を左右に振って見せた。
「DTOと呼んでくれ」
「呼びにくいです」
「そこは魂でカバーだ」
「意味がわかりませんよ…」
 溜息をつく、この一連のやりとりも何度目だろう。ハヤトのクラスの担任教師であるところのこの男は、初日の自己紹介でいきなり黒板にアルファベット三文字を力の限りとばかりに書きなぐり、「俺の事はこう呼べ!読み方はそのまま、ディー・ティー・オーだ!ほれ、復唱!でぃー、てぃー、おぉおーー!!」
 と、叫んだのである。
 クラスの生徒たちの反応はまっぷたつに分かれた。すなわち大喜びで握りこぶしなど掲げつつ復唱する者と、衝撃で硬直することしかできない不器用タイプである。
 ハヤトは後者だった。
 その後ノリノリの生徒(前者タイプ)が発した質問「DTOってどーゆー意味ですかー?」に帰って来た答え「デス・ティーチャー・俺様だああ!!」にさらに頭を抱え、これからの学校生活を本気で案じていたハヤトが、その元凶とこれほどに親密になろうとは当人にも周りの者たちにもかなり意外なことだった。最も中学生活の始まりから何ヶ月もたたずに、型破りな新任英語担当・DTOは、ほぼ学校中の生徒からの信頼を集めていたのだが。ハヤトはその中でも格別に彼に懐いた。音楽好きという共通点があったお陰かもしれないが、本当のところハヤト自信にも理由はよくわかっていない。
 だがそれだけ仲良しでも、DTOのことをそのまま呼ぶのがハヤトはどうしても苦手だった。先生なのに「先生」と付けて呼べないのが、根が真面目なハヤトにはどうにも坐り心地が悪いのである。かといって「DTO先生」では先生とティーチャーで重なってしまう。それも気持ちが悪い。
 そんな細かいこだわりのため、ハヤトはDTOを単に「先生」と呼び、同様にこだわりがあるらしいDTOから再三訂正されている、というわけである。
 DTOは何かの書類を書いていたらしいノートパソコンから手を放し、傍らに置いてあった湯飲みを啜った。
「お前が職員室とは珍しいな。何だ?まさか担任の知らないところで呼びだしかー?」
 にやにやしながら言うDTOの軽口にむっとしてみせ、ちがいますよ、とハヤトは言った。
「出席簿。担当の奴がどうしても早く帰らないとっていうから代わりに」
「へえ、あいかわらず人が良いなあお前は」
「…こういう時はもうちょっと褒めるとかして下さいよ先生」
「D・T・Oだ。今のはちゃんと褒めてただろうが」
「どこがですか」
 そんな二人のやりとりは周りで見ている教師たちにも既におなじみの事らしく、くすくすという忍び笑いがそこかしから聞こえている。ハヤトは少し顔を赤くした。話題を変えようと、ちらちらと周りに視線を飛ばす。 と、お世辞にも整頓されているとは言えないDTOの机の片隅に、ふと目を引く物があった。
「先生」
「DTO。なんだ?」
「これ、何ですか?」
 言いながらハヤトはそれを指差した。指が作り出したラインに沿ってす、とDTOの視線が動く。
「これか」
 少しの間の後、彼の手は違わずそのものを拾い上げた。
「時計…ですか?」
 それはハヤトが口にした通り、一見して長い鎖のついた懐中時計のようなものだった。ただそれにしてはやや小振りなサイズで色は鈍い金。蓋と思われる表面部分には、月と星を簡略化したようなモチーフが浅く彫り込まれている。
 だが一見メルヘンチックな筈のそのレリーフは、一体どういう加減によってか、どこか、深い所で見る物を突き放すような、拒絶するような冷たい輝きを湛えていた。どこがとは言えない。だが少なくとも、これが夢見がちな少女たちなどのために作られたようなものではないことだけは、その放たれる硬質なオーラとも言えるものが静かに、しかしはっきりと主張していた。
「…まあ、そんなようなもんだな」
 『時計』を手の中で転がしながら、DTOは常にないどこか曖昧な返答をする。ハヤトはまずかったか、と思った。もしかしてデリケートな領域に踏み込んでしまったのだろうか。ここは早めに話題を切り上げた方がいいかもしれない。
「先生。それよりも今度の…」「これ、お前にやるよ」「え?」
 思わず目をぱちぱちさせたハヤトに構わず、DTOはほれ、と『時計』を無造作に投げてよこした。あわてて受け取った手の中で、それは二三度跳ねて居場所を定める。
 ――思ったよりも冷たくないな。触れた金属の感触に、ハヤトはふとそんな感想を抱いた。
「って。だ、だめですよ!」
「何がだよ。俺がやるっつってんだからいいじゃん」
「だってなんか…こう、大切そうなものっぽいじゃないですか」
「へえ」
 DTOは何故かそこでにやりとした。訳が判らない。この教師には、どうも普段からそういう所がある。
「そんな事を言われるとますますやりたくなっちまうなあ」
「はああ?ちょ、ちょっと待って下さいよ…」
「じゃあこういうのはどうだ?やるんじゃなくって、一時預かり。しばらく持っててもらうだけ。ならいーだろ、邪魔になったら返してくれりゃーいいからさ」
 はぁ。ハヤトは煮え切らない相槌を口から漏らしながら、胸にむくむくと広がる疑念を口にするかどうか迷う。解せない。どうも解せない。確かにそれなら特にこちらに断る理由もなくなるのだが、逆に向こうがハヤトにこれを渡したい理由もわからなくなってしまう。ただ持っていればそれでいいのか。それって、彼は、これを手放したがってるって事なのか?
 …いやな予感がするんだけど…。
「う、あのやっぱり」
「頼むよ」
 DTOはいつの間にか笑みを引っ込めて、こちらの瞳を覗き込んでいる。急に現れた真剣な色にハヤトはどきりとした。まずい。
「しばらくでいいからさ」
 …これは…
「や、でも」
「よろしく頼んだぞ!」
「はい…」
 やっぱり流された。
 かくして、帰宅する押しに弱い少年の制服の内ポケットには、謎の預かり物が納まることとなったのだった。

 それがこの先どんな物語を生み出すのか、この時点で知っていたのは、まだ、問題の教師だけだったのである。