校舎から外に出ると思いの外既に空は暗くなりはじめていて、高い位置にぱらぱらと振り撒いたような光が瞬くのが見えた。空気の流れに首が竦む。そろそろコートを引っ張り出しておかないといけないかもしれない。
 ハヤトはふう、とそんな晩秋の空気の中に、自分の溜息を滑り込ませた。それはまだ白くはならずに溶けて流れる。
 この暗さではもう愛車…もとい愛スケボーに乗っていくというわけにもいかないな、と思いそれは小脇に抱えて歩いていた。好きで持ち歩いている物だがこういう時はどうも弁解のしようもなくお荷物だ。ヘルメットも首にひっかけて、後ろでぶらぶらと揺れている。そして、胸の内側のポケットには、彼にいちいち溜息をつかせる原因になった問題の物が、確かな存在感を持って鎮座していた。お陰で皮膚を挟んで内側にも、同じ位の大きさのしこりが生まれわだかまっている。どちらもずしりと重たい。
 あの先生は一体、何を考えているんだろう。
 同じような問いは何のことはない、彼に出会った当初から幾度も胸の内に浮かんでは回っていたのだが。つくづくにあのDTOという人物は、トラブルと生徒間の話題の種を生むのにこと欠かない。行動は派手で嫌が応にも人目を引く。だが、その割に、学校での姿以外の彼に関する情報は、不思議に誰の耳にも入ってはいないようだった。皆学校内の行動だけで腹一杯で、そんなことまで気にする余裕がないということかもしれないが。
 それにしても、こうして改めて気にしてみると不自然なほど謎の多い人物だ。普通出身地やら年齢くらいのことは話題の内でも自然に浮かびそうなものだが。だいたい、そもそもの始め、クラス編制のプリントの担任の欄に印されていた名は既に『DTO』だったのだ。まさか学校にまで正式にその名で登録されているとでもいうのだろうか。そんなことがあっていいのか。
 やっぱり得体が知れない。
 そこまで考えてハヤトは知らず苦笑を浮かべた。
 我ながら担任教師になんて言い草だ。しかも随分と今更である。
 大体、得体が知れないと言うのなら、もう、自分の立っているこの世界そのものが、しばらく前からひどく得体が知れないのだ。
 あまり考え過ぎない方がいいのかもしれない。大体のことというのは、考えるよりも、大したことではないものだし。
 しかし…
 最後に見せた真剣な瞳の色。それが気にかかる。
 あの人は僕に何をさせたいんだろう?この時計は一体なんなんだ。いや待て、そもそも、
 ハヤトは足を止めた。
「…時計なのかな、これ」
 なんだか時計ということで落ち着いてしまっていたが、そういえばまだ、この蓋の下に文字板が付いているのかどうかすら確認していない。
 …どうしよう。
 いやどうしようってまあ、確認すればいいんだけど。
 その時ハヤトは、何故か、体の随所に沸き上がるような抵抗感を感じていた。
 それが、俗に言う嫌な予感というものだとは気付かないまま――胸ポケットに手を突っ込む。
 その瞬間。
 突然、背中の骨に水を振り掛けたような感覚が下から上に走って、あっけにとられて思わず手が止まった。一瞬後にそれが止まったと言うよりは硬直したのだと気付く。撲たれたように鼓動が早まる。これはなんだ。取り巻く空気そのものに突き刺されているような感触。視線?いや、これは、
 ―――殺気?
 ぞわっ、と震えが走った。もちろん生まれてこのかたそんなモノ感じたことも縁があったことすらない。しかし解ってしまった。自分にもそんな動物的カンのようなものがあるとは知らなかったが間違いない。
 でも、どこから?
 首を(竦めながら)巡らせて見ても辺りはもうそこら中が闇色に沈んでいてとてもではないがそこに潜んでいる存在を判別することなんてできない。いや、そんなことより前になんでなんだ。こんな平々凡々な一介の中学生が、なんで、誰かに―――殺したくなんて、思われなくちゃならないんだ!?
 がぁん!
「うわ!」
 左から前触れもなく衝撃が来て小脇に抱えていた板が弾け飛ぶ。反動でハヤト自身の体も数歩よろめいた。なんとか踏み止まったその位置より随分と離れた場所で、落ちた板が、がらがらと音をたてているのが聞こえた。
 ちょっ…
 …冗談じゃない!!
 相手はどうやら本気らしい。本気でこちらに危害を加える気なのだ。どっと汗が吹き出る。
 逃げなきゃ。でも…どうやって?
 相手がどこから来るのかわからないということはどこへ行っても逃げられないかもしれないということだ。だが止まっていても状況は同じだろう。だとしたら…
 す、は、と浅く呼吸を整える。
 ここは突破あるのみ!
 適当に見当を付けた方向にだっ、と走り出す。一瞬転がったままの愛スケボーのことが頭をよぎったが今はどうしようもない。
 ―――来ないでくれよー!!
 だが。
 願いも空しく、前方数メートルの地点に、闇色をした『なにか』が立ち塞がるのが見えた。いや、立ち塞がったというのは正しくないかもしれない、その『なにか』は――確かな意思を持って、走るハヤトの視界の中に上方から落下してきたのだ。
 うそぉっ!?
 あわてて立ち止まるという動作が入る暇があったのかどうか次の瞬間、ハヤトの目の前は真っ黒く塗り潰された。気を失ったわけではないらしいことが皮肉にも後頭部の気を失いかねない痛みで知れる。背中に冷たい感触。両肩の圧迫感。どうやら凄い勢いで地面に押し付けられたらしい。
「うぅ…」
「……」
 ハヤトの口からは呻き声が漏れたが、覆い被さった影は無言のままさらに力を篭めてくる。先程の後頭部に加えて肩口のあまりの痛みに真っ黒なままの視界に星が散った。跳ね退けたくてもせいぜい手足の先しか動かせない。今度こそ本当に気が遠くなりかけてきて、ハヤトは必死に足をばたつかせた。
「ぐっ!?」
 そうこうしているうちに肩の圧迫感が一つあろうことか喉元に移り、空気が潰れて抜ける音を最後にハヤトはなんの言葉も発することができなくなった。急速に血の回らなくなっていく脳の中に絞殺、という文字がくるくると回る。まさか自分が。よりによって自分が。こんな目に遭うなんて普通、考えるか?それもなんだかよくわからないうちになんだかよくわからないようなモノに。まずい。本気でまずい。僕の人生ここで終わるんだろうか。殺されて…
 死ぬ。
 死…?
(…んな)
 そんなの。
(いやだあぁぁっ!!!)