「…ハヤト」 状況をうまく飲み込みきれないながらも、投げ返された要求に半ば反射的に答えを返した。思い出したように風が吹き過ぎゆく。立ち尽くす二人の間を、そこにあるなにかを押し退けてゆくかのごとくに。 「そうか」 白い髪の少年は―――ジャックと名乗った、少年は、それだけ言うと、ついと目を伏せ、再び踵を返そうとし、 ハヤトはその腕を無言で掴んだ。 ジャックは、再三の邪魔をとくに非難するでもなく、ただ無感動に掴まれた腕を身やった。 そこから、再び上げられた視線を、 ハヤトの眼が、捕まえる。 「…君は」 僕は。 「君は、どこから来たの?」 僕は、どうしたいんだろう。 「歳は何歳?同じくらいに見えるけどそうでもないのかな。用事以外の時はいっつもここにいるの?なら食事とかはどーしてんの、まさか食べてないとかってことないよね。好きな食べ物とか、あるの… 食べ物だけじゃなくて、好きなものとか、嫌いなものとか」 きっと、あまり懸命な行動ではないのかもしれない。 「好きなこととか、嫌いなこととか」 というか、明らかにわけがわからない。逆走もいいところだ。リュータの言ったことが頭をちらつく。なんでわざわざ。 …けど。 「そういうことを… 知りたいと思ったら、だめかな。 …君の」 そうしなければいけない気がする。 いや、そうしなければいけなかったんだ。 きっと、そもそもの初めから、そうだった。 「君のことを僕は知りたい」 全てでなくてもいい。そんなことは、誰に対してだって、何に対してだって不可能だ。 けれど、なにも知らないということは恐ろしい。なにも、知らないから、恐ろしいのだ。 だから少しでも、知ることができれば。できるならば。 きっと、僕にだって、なにかが変えられる。 …こともある、かな。と。 「…だめかな?」 首を傾げて聞いてみる。 ジャックは無言だった。 無言で、こちらを見ていて―――しかし、その視線は、ハヤトを通り越して、別の何かに向けられているようにも見えた。 その顔には、ぼんやりとした、戸惑いの表情が浮かんでいる。 先だって、ハヤトと、捜し人との差異を見分けた時と、 相似する戸惑いの色だった。 そして今に至り。 「じゃあ、今日の質問事項」 「……まだあるのか」 「まだまだある。ええと、裸足なのはなんで?見た目痛そうなんでなんか履いてて欲しいんだけど」 「多大な世話だ」 「ブー、それは答えになってない!」 「……………」 こんなことになっていた。 誠意が通じたのか、それとももとからそういう性質だったのか、あの後ジャックは憮然とではあるが妙に素直に質問に応じていた。 それをいいことに、ハヤトはまるで最前までの畏れがなかったことのようにたて続けに疑問をぶつけた。…気持ちの切り替えが早いことはハヤトの性格の利点の一つである。 だがしかし。 「わからない」 「え、こんなどうでも…いやちょっとした、ことまで?」 「………」 「そっか…」 そのほとんどが。 同じ答えで、返されていた。 どこから来たのか。生まれてから、何年経っているか。家族は。知り合いは。 今まで何をしてきたのか。 そんなことの何もかもが――ない。 意識の中に、ない。 それはどうやら、『忘れた』ということですらなく。 「わからないな」 苛つくでもなく、悲観するでもなく、無感動にジャックはそう言った。 「そういうことを、お前は、『なければいけないこと』であるように言うが」 「なければいけないことだよ」 ハヤトは、こちらは若干イラついたように、言った。 「『今まで』がわからないとか、ないとか、そんなのおかしいんだって。だって…今まで、生きてきて」 「そういうものなのか」 「そうだよ」 ため息をつく。 …方程式の解き方を尋ねた相手が、そもそも掛け算のなんたるかを知らなかったような気分だな、とハヤトは思った。まあそんな状況に行き会ったことはないけれど。 …どういうことなんだろう。 『何もない』。そのことを、そもそも本人が疑問に思っていない。 『過去』の『概念』がない、というのか。 どんな気分なんだろう、それは。 過去がないから自分がなく、自分がないから未来もなく――あるのはただ、現在のみ。 目的のみ。 (…目的) 『時計』は、まだハヤトのポケットの中にある。 ジャックの目的。これの、持ち主を捜し出すこと。 (捜し出して…そして、) ――そのあとは? 「………」 「うわ?!」 いつの間にか、ジャックがしゃがみこんで、ハヤトの顔を覗き込んでいた。 「…お前には、あるのか、それが」 「それ?」 「『今まで』」 赤い瞳が細められる。あれ以来、マスクを着けたところは見ていない。 「だったら教えろ」 「………。 うん」 頷いて、ハヤトは話し出す。 目的しかない存在の、最終的な、最後にたどり着くところの、目的。 それを、ハヤトはまだ、訊けていなかった。 ジャックはその日ずっと、黙ってハヤトの話を聞いていた。 |