11.


 店長に顔色が悪い、と言われてしまった。
 はあ最近ちょっと心配事が多くて、とは答えたがその内容まで言える訳もないのに後から気付きごまかしにまた無駄な苦労をした。…どうも自分の人生、思えばそんなことばかりのような気がするな、と帰途リュータはつらつらと思う。自分じゃ気をつけているつもりなのに、気付けばいらない心労を背負っている。それも大概は自分自身に責のないことだったりするのだ。それはつまり、付き合う相手を選ぶのが相当下手だということだろうか。
 そうかもしれない。
 そう思ったら無性にやるせない気持ちになり、もう癖になっている溜息がまた洩れた。
 …別に、後悔しているとかうんざりしているとか、そういうのはないのだ。ないのだが。
 これも持って生まれた宿命ってやつなのだろうか。
 嫌だなそれ…
 などとうだっているうちに、我が家にはあっという間にたどり着く。
 扉の前に人影があった。
 手摺りから外へ向かってやや身を乗り出した、遠目からでも判り易い頭のシルエットのその主は、明らかに心労の張本人の一人と知れる。
 あ。
 なんかいきなりムカついてきた。
 またもむらむらと八つ当たり気分が沸き起こり(どうも普段から、この男にはそういう気持ちを起こさせる何かがあるとリュータは思っている)、どんな第一声をかけてやろうか、いっそもういきなり殴ってやろうかと考えながら近づいて、
 その横顔がいやに硬いことに気がついた。
 足が止まる。
 こちらの接近に気付いていないのか、視線を前にしたまま微動だにしない。やがて、体に隠れて見えなかった右手が耳元から離れ、携帯電話をぱちりと畳むのが見えた。
「ユンタ」
「ん?…ああ、おかえり」
 やはり気付いていなかったようだ。
 こいつに限って。
手元に目をやりながら、何してんだ、と問いかける。
「何って電話。見てたんだろ?」
「誰と」
「誰でもいいじゃん」
「誰とだよ」
「…嫉妬深いお嫁さんですか、お前は」
 冗談めかして言ってもリュータの表情が変わらないのを見て、ユンタは観念したように息をつき、別に心配するような相手じゃないさ、と言った。
「俺がトモダチ少ないの知ってんでしょ。…家からだよ」
「実家?」
「そう」
 短く言って、ユンタはそれきり黙った。話したいことではないということか。…しかし、実家。故郷。
 ――帰れなくなったんだって。
「ユ…」
「俺はいつまでここにいればいいのかなあ」
「は?」
 言葉を遮られ、唐突な相手のその台詞の意味もよく計りかねてリュータは頓狂な声を上げた。
「いやさ、まあ、この騒ぎにはさ、言ってみれば俺直接関係ないわけじゃん?お前もだけど。巻き込まれたってかなんてーか。だったら別に、理屈で言えば、俺もうここにいる必要はないんだろう、けど」
 珍しく、らしくもなく、ぶつぶつと言葉を途切れさせながら、ユンタは言う。
「でも、やっぱり俺はまだ、ここにいなきゃ、ならない。
 …と、思うんさ」
 手の中で、古い型の携帯をもてあそびながら。自分でも、答えを探しあぐねているように。
「…どうして、そう思うんだよ」
「たぶん、必要とされてるから」
 目を手元に落としたまま、なにげなくユンタは言った。
「さっき必要ないって言わなかったか」
「初めて会った時のこと、覚えてるか」
 質問に答えず、質問で返すユンタ。リュータは、一瞬詰まりながらも言い返す。
「誰と。お前と?」
「それもだけど」
 ユンタが目を上げる。
「あの人と」
「……ああ」
 言われてリュータは、惑わず、唯一人の姿を脳裏に浮かび上がらせた。
 共と携えし刃と同じ、鋭き色の、その佇い。
「そりゃあな」
 忘れるはずもない。
 このつまらない人生に、深い楔を打ち込んだ、あの出会い。あの存在。
 ――忘れたくても、忘れられるものじゃない。
「…そうだよな。俺もだよ」声にしなかった思考に同調するかのように、ユンタが述べる。
「たぶんハヤトもそうなんだろうな」
「…そうだな。まあ、そうなんだろうな」
「…そんでだ」
 ユンタはそこで言葉を切り、思わせぶりにちらとリュータの目を見た。
「今回のことは多分、ハヤトにとって、二度目の出会いなんさ」
「…?
 なんだそりゃ」
「そのまんまさ」
 ユンタの顔はいたって真面目だった。真面目に、あたりまえのように、そう言った。

「『あいつ』と出会うことは、ハヤトの運命だったんだよ」

「………」
「『俺達』皆にとっての、『あの人』との出会いと同じように」
 押し黙ったリュータに構わず、ユンタは続ける。
「だから、俺とお前があの時、ハヤトとあいつを見つけて、今ここにいることもきっと偶然じゃない。
 『そういうこと』になってたんだよ。最初から。
 だから…」
 ふいに、視線が外される。確定的な言葉とは逆に、それはしばし迷うように揺れ。
「まだ、何も終わっていないなら。
 俺はまだ、ここに居なきゃいけないんだと思う」
「………」
「多分、お前もね」
「…は」
 嘲笑のつもりで漏らした声は、しかし、自分で思ったよりもだいぶ掠れていた。
「なんだよ、それ。運命論?…お前みたいなのの口からそんな言い草、聞くなんて思わなかったな。…いや」
 リュータは目を細めた。ほんの少し、昔の情景を透かし見て。
「お前は、そういや、そういう奴だっけ」
「…そうかね」
「そうだよ」
「よく覚えてねーけど」
「そういう風に、訳わかんない理由でいつも自分の想いを後回しにしてた」
「………」
「お前のそういうとこ、嫌いだよ」
 ユンタは目を伏せた。伏せたまま、やおら、文章を読むように語り出す。
「『自分が一人で生きてるなんて本気で思ってやがるのか?だとしたら随分とお目出たい。お笑いだ。笑いすぎてヘドが出る。――この世にヒトとして存在して、何とも誰とも関わらないなんて、繋がらないなんてできるもんか。お前のことを考えてる奴が一人もいないなんて、あるもんか。そんなことにも気付けないような奴は馬鹿だ。つまりお前は大馬鹿だ』
 …だっけか」
「何」リュータがぱっと頬を赤くした。
「んーな昔のこと一字一句覚えてんだよ、お前は!俺だって忘れてたぞそんなん」
「忘れないよ」ユンタは笑った。楽しそうに。淋しそうに。
「忘れない」
「バッカバカしー」
 リュータは手に持った鞄を、溜まった空気を掻き混ぜるように大袈裟に体の前で振った。
「どうでもいいよ。昔のことも、今のことも、どうでもいい。ようはやりたいようにやりゃいいだけだろ?誰かのためにしたいことでも、自分のためにしたいことでも。いい悪いで迷う必要なんか、ねーんだよ。自分の人生で」
「うん」ユンタは頷いた。
「で、お前はどうしようと思ってんの?」
「…俺は」
 顔を思い浮かべた。
 学校の違う後輩。年下の友人。
 そして。

 …そういえば、今頃、どうしてんのかな。

 夜は、半分の月を抱いて、静かに更けようとしている。