やりとりを重ねて、分かったことがいくつか。
 押しに弱いこと。びっくりするほど一般常識がないこと。水しか飲んでくれない。意外にぼんやりしている。見た目からは想像もできない身体能力。乏しい表情。
 まだ一度も笑顔は見せてくれない。
 それでも、このままこの嘘みたいな平和な時間が続けば、いつかはそれも叶うんじゃないかと思っていた。
 思っていたのに。
 やっぱり、いつだって、どんなに滑稽で作り話めいていたって、そんなに甘く優しくはないのだ。現実というやつは。








 ふと我に帰ると、建造物の隙間からようやっと全身を抜け出させたばかりの月の光と向かい合っていることに気がついた。今夜のその色はやけに血濡れて紅く、よからぬものを吸って膨れたがごとくいびつに肥大して見える。しかし禍々しいはずのその姿は、見ているとどこか、なぜか懐かしいような見慣れているかのような気持ちに囚われてならない。まるで、久方ぶりに鏡を覗き込んでみた時のように。自分の姿はこんな風だったのだと、再確認しているのかのように。
 ――世迷い言だ、とジャックは思う。
 しかし月は、ジャックに思考を断ち切らせまいとするかのように、そんな風に、重たいものから無意識に眼を逸らそうとするような行為をせせら笑うかのように、意識と視線を引き寄せて離さない。逃げるな。戸惑うな。忘れるな思い出せ。お前は思考できる。本当は失くしてなどいないだろう?過去も自分も心も。その内にあったはずの、泣きたくなるほど切実な望みも。
 ――やめろ。
 握った手を両のこめかみに当て、眼を閉じて俯く。紅い光から眼を反らす。それは、そんなものは、全てとうの昔に捨ててしまった。留めておく意味を失くしたあの日に。意味を失くしたから、無くした。もう遺っていない。
 だから、抉り出すのは止めてくれ。
 抱えた頭の、芯に近いところで、ぱしんと火花が散る音がした。
 それきり、声はしなくなる。
 強張っていた身体が楽になり、ジャックは息をついた。その代わり、どうして自分が今そんな状態に陥っていたのか、霞がかかったようにはっきりとしなくなっている。それもいつものことだ。もう違和感すらないいつも通りの。
 ――なければいけないことだよ。
 だって、今まで、生きてきて。
 霧のかかった思考の中から、ふいに言葉がぷかりと浮かび上がってきた。
 いつか、あいつに、あの物好きな奴に言われた言葉。光線灯のように真っ直ぐ切り裂く視線と、確かな意思のもとの確定。それに照らされて固められて、ジャックは曖昧でいられなくなった。――曖昧でなくなると、途端にまた、不安定になる。振り捨てるように頭を振った。
 いやだ。
 …やっぱり、あいつとは、関わるべきじゃあなかったんだろうか。狂っていっている気がする。何もかも全てが。どうして、あの時振り返ってしまったのだろう。あの時からだ、おかしくなったのは――
 名を求められ、名を取り戻した、あの時から。
 恐る恐る、目を開ける。
 月は紅いままそこに在る。ジャックが、ただ一人のジャックで在ることを、どんなに不必要だと切り捨てようとも、未だ無くすことができずにいるように。
 俺は間違ったんだろうか。最初から全部無理だったんだろうか。
 あんまりじゃあないか。――だって、ただ、元に戻ろうとしただけだったのに。そもそもの始め、あるべき姿。沢山の中の一つでしかなく、他に何も無い『存在』に。なのになぜそうさせてくれない。手遅れだっていうのか。掌に染みた血の匂いがどれだけ洗い流そうともけして消せないように、一度、この存在に刻み込まれたそれらのものも、同じように、背負い続けなければならない罪そのものだとでもいうのだろうか?
 だとしたら、これはなんて厳しい罰なのだろう。
 …こんな、二度と感じたくないと思っていた、思い出したくないと思っていた『気持ち』を、また味わわされることになるなんて。
 ジャックは痛みをこらえるように、再び目を閉じた。その頭上で、黒い霞のような雲が月光の周りを漂い始めている。
 ――いや。違う。
 最初から、そうじゃなかったのかもしれない。
 この『気持ち』は一度も消えてなんかいなくて、俺は、ずっとそれに突き動かされていただけなんじゃないか。
 そう、俺は、きっと、
 ただ、もう一度だけ…


『そのとおり』


 声が、した。
 それはもちろんするはずのない声で、今ジャックの立つ廃ビルの屋上には彼以外誰も存在しておらず、すなわち彼自身にも解っていた。これは空気を振動させ音として伝わって来たものではない。これは、
 ばっ、と月を見上げる。しかし、つい先刻まで不吉な光を撒き散らしていたはずのそれは、いつのまにか霞の雲に完全にその姿を覆い隠されている。
 封じられた赤光。
『鏡を覗いても無駄だぜ、何故なら俺はお前じゃあないから。お前と同一であるかもしれないが決してお前そのものでは有り得ないのさ。これはある意味悲劇だね。…詰まるところ、お前が望んでいたのは再会、そう誰よりも、先に、再びあの男に辿り着くこと、だったのだから。他の誰の手にも触れさせず…

 この手で、殺す』

 ジャックの手が、ゆるり、と握りしめられていく。それを、ジャックは、茫然として眺めていた。
『どうせ逃れられないのなら。いっそ自分の手で。その為に再び、心無きものに成り下がったとしても…ああ、全く、感涙を禁じ得ない献身的な愛の物語だぜ。
 だけど、悲劇だ。それはもちろん、お前が悲願を達成してしまうからではないさ』
 ああ。
 そうだったのか。
 なんのことはない…答えは最初からここにあったのに。
 全部、決められていたんじゃないか。
 ようやく、
 全てを、思い出した。
『…お前の役目が、もう終わるから。
 第二幕主役交代、舞台から御退場だ。ごくろうさま…あとのことは心配しなくていい。俺がいるからな』
 見えない糸に引かれるように、背後を振り返る。
 月光の消えた深闇の中で、更に深く、有り得ないほど黒く、蟠る彼自身の影。
 それがゆっくりと立ち上がり、
 その黒い腕をこちらの首に回して来、
 まるで慰めるように、その実は、心の底から、嘲笑うように――抱擁してくるのを、ジャックは、確かにそこに認識した。
 それは、くつくつと咽を震わすようにして笑うと、残念だったな、と言った。





『お前ではない俺が、あの男を殺す。
 カウントダウン・スタートだ』