次の日の昼休み。
 ハヤトは唸っていた。
「うーん…」
「どしたハヤト。便秘か?」
「違う」
「そうか、乙女の日かぁ」
「セクハラかよ!」
 手首のスナップで裏拳を表現してみせたハヤトに、ビス子はしかし、可愛い顔立ちを台なしにする渋い表情を作って、キレがないわね、と言った。
「何か悩みごとでもあンのかな?さあさあ、おねーさんに話してみなさいな」
「いや、同い年だし。誕生日すら、僕のが先だし」
「そんな細かいこと気にするな器の小さい男め。つーかもうさあ、空気が澱んでるわけ気分が悪いわけ。ただでさえ担任教師がいつまでも戻ってこないで、クラス全体調子狂ってるってのにさ。この上瘴気増やさないでくれるー?終いにゃ肺が腐れて落ちるっつう」
「瘴気て…。…別に、なんでもないよ。問題ない。何もない。ホント大丈夫。だからほっといてくれ」
「…あんたそんなんで人を説得できると本気で思ってる?」
「思ってないけど考えるのが面倒臭い」
「……ふん。そう」
 ビス子は肩を竦めてそれ以上の追求をやめた。代わりにハヤトの机に向かい合わせに頬杖をついて、その目をじっと覗き込む。
「今お主が考えていることを当ててしんぜよう」
「うさんくさっ。言っとくけどお代は払わないよ」
「『納得できない』ってカオだそれは」
 ハヤトは沈黙した。
「パッと見て間違いはないけどなんとなーく腑に落ちない、ってなことがあるとき、あんたはそーゆー、気持ち悪そお〜〜なカオすンのよ」
 視線を噛み合わせたまま、しばし間が空く。
「知らなかった?毎回、だいぶあからさまだわよ。…そういう時は、自分がはっきり納得できるまで、考えて確かめて突き詰めるのが最良の解決方法だと思うけどね。うんコレ、いつも言いたかったんだわ。いやあやっと言えた。すっきりすっきり」
 じゃあそういうことであとは自力で何とかしてちょーだい、と、ビス子は言いたいことを言うだけ言って、そのままどこかに行ってしまった。昼食後の喧騒の中に一人残されてハヤトは、組んだ手に額を預けて、はあ、と溜息をつく。
 図星だった。
 昨日の別れを、ハヤトは、なぜかまだ自分の中で消化し切れずにいるのだ。
 感傷、もあるが。それともまた違う。
 何でかなぁ。
 確かに、これで全てが解決したというには色々とわからないこともあるままだし…何より、DTOが未だ行方不明のままだという大問題が残っているのではあるが。しかしそれとはまた別の原因の気がするのだ。胸がざわつく、この、違和感。
 どこかで警鐘が鳴っている。
 まだ終わっていない。
 何も終わっていない。
 目を逸らしては、いけない。
 …なに、から?
 昨日あいつが言っていたことなんて全部邪魔な僕を居なくならせるための嘘で、本当はやっぱりまだ、目的を果たす気でいるんだ…って、そりゃあもちろんそのくらい考えなかった訳はないさ。…でも、それはない。根拠なんて何もないけど、それは、断じて、ない。
 何故かそれは、ハヤトの中で、絶対的な感覚だった。
 あいつは嘘をついてない。
 けど、たとえ嘘ではなかったとしても…
 胸ポケットを無意識に押さえ、昨日の、最後の、表情を思い出す。
 その無表情な表情の中の、瞳の奥のかすかな瞬きが、ぼんやりと―――
 もう随分前の出来事のような気のする、思えば全ての始まりだった、担任教師の、最後に見たあの真剣な表情に、重なった。















 考えに沈んでいるうちに5限目と6限目が頭上を通り過ぎてしまったらしく、気付くと教室に一人だった。普段はそれでもそれなりに誰かしらが残っているはずなのだが、なぜか今日は誰も、いない。
 ハヤト一人だった。
 部活動の声が、遠く聞こえる。
 そんなに時間たったっけ、と時計を見たところで、ふと――既視感を感じた。
 ――ああ。今のこの感じは、あの時に似ているんだ。
 ここで、先生と話した、あの時に。
 つい教卓に目が行く。だがもちろん、そこには誰も、いない。
 ハヤトはひょこひょこと歩いて教卓に近づき手を触れる。そして、少し苦労してその上に腰を乗せた。ちょうど、あの時の、あの人のような格好で。
 さて。
 背をぐいと反らして天井を見詰める。ぽつぽつと浮き出たシミに焦点を合わせたり、ぼやけさせたりしながら、ハヤトは、考えた。
 僕は、これからどうすればいい。
 いや。
 …どうしたい?
 DTOの顔を思い浮かべる。
 そして、ジャックの、顔を思い浮かべる。
 順繰りにそうしていると、なぜか、そのふたつは酷く似ているような気になってくる。造作がというわけではない。表情。…その、更に下にあるもの。
 何かとても大切なものを、隠してはいてはいけないはずのものを、巧妙に、押し込めているような。
 それはなんだろう。
 何を、隠してる?
 そこまで考えて、ふと、ハヤトは気付いた。
 なんの事はない。
 自分がどうして、ジャックを気にかけたのか。今も、気にかかっているのか。
 ―――それを、知りたかったからだ。
 瞳の中に押し込められた、モノ。知って、引きずり出して、解体してしまいたかった。―――だって、確かに存在するそれが、とても見ていられないほどに、
 辛そうで、苦しそうだったから。
 ハヤトは溜息をついた。…それならば、自分がどうしたいのかなんてことは、明白だ。
 あいつにもう一度会うこと。
 …会ってどうすればいいのかは、よくわからないけど。
 とにかくもう一度。
 これで終わりにしたら、駄目なんだ。
 …といっても、あいつはもうどこかに行ってしまったんだったが。どうしよう…あ、ていうかこれ、前にも同じ失敗してたような…
 アホか僕!
 ハヤトは一人で煩悶し、その拍子に、体を支えていた手がずれて机の縁を掴んだ。
 と。
 その手に、何かが触れた。
「?」
 教卓の板の裏側、その隅の方に、何か薄いものが貼り付けてある。手探りで引っ掻いて剥がし、手にしたそれは折り畳んだ紙だった。乱暴に折り畳んで、乱暴にテープで貼り付けた跡。
 何となく、予感がした。
 …果たして。


『よくぞ見つけ出した!』


「………」
 開いてまず目に飛び込んで来た、見覚えのある豪快な文字。ハヤトは思わず半目になって、天井を仰いだ。
「先生…
 また、妙な小細工を」
 好きなんだろうか、手紙が。レターが。
 いつから貼ってあったんだコレ…いなくなる前から、既に?というか、僕以外の奴が気付いちゃったらどうする気だったんだよ…

『お前ならば必ず気付くはずだと俺様は信じていたぞ!』

「いや、すごく偶然なんですが」

『ちなみにこれと同じ文面の手紙が、お前の下駄箱の上板とこの教室の黒板の裏のスキ間と向かって一番右後ろ隅の床のタイル剥がした下に貼っ付けてあるからあとで全部回収しといてくれ』

「本当に小細工だ!!」
 なんだか脱力する。というか、まず下駄箱のに気付くべきだった、とハヤトは少し自嘲気味に思った。

『さて…本題に入るが。
 お前、今気分はいいか?悪いか?』

 ?…なんのこっちゃ。
 英語の例文みたいだな。言ってる人が人だけに。

『いたって良好、問題無しというならそれは善哉で終わるんだが。
 もし悪いっていうなら、…それも、もやもやして、腹になんか呑み込んだみたいな気分で、どうにも調子が上がらないとか、もしもそういう気分だっていうんなら』

 どきりとする。
 …どうして。
 見透かせるんだ、そんな事。
 思わず周りを見回す。しかし、がらんとした教室にいるのは、もちろんハヤト一人だけで。

『そうだというなら。
 俺に言えることは、たった一つだけだ』

 ごくり、と唾を飲み込む。
 …どこにもいないくせに。まるで所在がわからないくせに。
 一体、どこまで解っているっていうんだ、この人は…?
 かさ、と音をたてて紙を持ち直し―――ハヤトは先を読み進めた。


『もう一つのハーートに聞け!!』


 …………。
 はい?

『以上!!   DTO』

「以上かよ!!!」
 思わず力の入った指の中で、ぺらぺらの紙がぴしりと悲鳴を上げてひび割れた。
 何なんだ結局!!かっこいい事言いたかっただけか!?
 全然意味が解らないよ先生…!
 ハヤトは頭を抱えた。大体、ハートって何なんだよ、ハーートって…熱いハート?そんな言い方、今時かっこいいというよりはっきり言ってイタイレベルだって…
 熱いハート。
 熱い…
 もう一つの。
「!」
 胸元に、手をやる。
 そこにあるのは硬くしっかりとした感触、反してその実、不可思議な物体。
 そもそもの始まり。ハヤトが巻き込まれたこの不本意な事態。その入口の出来事―――

 まるで、
 二つ目の、心臓。

「こっ…
 これ、か?」
 …………。
 で。
「…どう聞けと?」
 とりあえず手の平の上に取り出してみたところで、はた見はやはりただの時計。見詰めてみたところでうんともすんとも言う気配はない。
 ええと…
「もしもーし…何とか言ってくれませんかー?」
 いかん。これじゃ僕までイタい人だ。
 じゃ、じゃあ…
 ハヤトは気を取り直し、『時計』を―――胸の、心臓の近くで、ぐっと握りしめた。
 その手に額を寄せる。
 …僕は、どうすればいい?
 今、この時。この状況で。
 何をするべきなんだ。
 僕に、
 僕にしか出来ないことは―――
 何?

 …どくん。

 脈動が、伝わる。
「!」
 どくん。
 どくん。

 ――どくん!!

「っ痛!」
 突如大き過ぎる衝撃が、ハヤトの心臓に飛来した。時計を取り落としてもまるでそれは止まず、やがて全身へと蝕むように広がってゆく。
(…痛い)
 痛くて、痛くて、苦しくて…身動きがとれない。
(いや、違う…)
 これは痛覚じゃない。
 これは…
 心の、痛み?

「!!」

 そこで唐突に…降り懸かって来た時と同じように、唐突に、その感覚は掻き消えた。
 後に残ったのは、ただ、自分自身の鼓動の音。追い立てられて走り回った後のように、嫌な感じに速まっている。
 今のは…何なんだ。
 悲しさ、苦しさ、悔しさ…哀しさ。ごちゃごちゃになって、破裂しそうに重たかった。何かの…僕意外の誰かの、感情。
 誰かって…
 そんなの、一人しかいない!!
 ハヤトは教卓を飛び降りた。そのまま、後ろも見ずに駆け出す。廊下を抜け、階段を走り。―――玄関ロッカーのスケボーを掴んだところで鞄を忘れて来たことに気が付いたが無視をした。
 行かなければ。今すぐ。きっと…もう、時間が、ない。
 あいつのところへ。