13.


 ばぁん、と蹴破るような勢いで屋上に通じる扉を開ける。転がり込んだその先に、背中が見えた。見慣れた白い髪。いつの間にか、見慣れていた。
 あの、最初の夜のように―――
 眼下に広がる光を眺めている。
 そして、そのままの姿勢で、何一つの力も込められていない躯が、
 その背中が、ぐらり、と傾いた。
 ―――!!

「だっ…
 駄目だああぁぁぁあ!!」

 数メートルの距離を飛び越すようにして駆け、果たして掴んだ箇所が脚だったのか服だったのかもよくわからないが、とにかく夢中で全体重を後ろに傾ける。縺れ合うようにして、夜気に冷やされた屋上の床に転がった。
「い…っつ」
 したたかに打ち付けてしまった腰のあたりを摩りながら、ハヤトはどうにか起き上がり――横に転がったままの体を、服を掴んで半ば引きずり起こすようにして持ち上げた。
「何してんだ!!今、今…」
「本当に」
 薄く眼を開いて。
 いささか乱暴な扱いにも、何一つ抵抗する様子も見せないまま―――掠れた声で、ジャックが、呟いた。
「お前は、本当に…馬鹿だなあ」
 悲しそうに。
 けれどどこか、刹那げな感嘆を、その声色に滲ませて。
「何、
 …なんなんだよ」
「逃げろ」
「え?」

 逃げる?

 一体、

 何から、

 一瞬戸惑ったハヤトの腕を強い力が締め付ける。痛みを押し付けるように。
 それが、懺悔ででもあるかのように。
 ああ、と、呻き声が漏れた。
「手遅れだ、…もう」
 そしてジャックの、赤い瞳に、
 ひかりが揺れて、集束する。


「カウント、ゼロ、だ」


 次の瞬間、
 ハヤトの身体は、宙に跳んでいた。










「う…」
 自身の呻き声を聞いて、飛びかけていた意識が急速に引き戻された。開いた目には自分の足先が真っ先に映る。どうやら、何か大きな力で、数メートルも弾き飛ばされたらしい。
 背中が痛む。他にも身体のあちこちからぎしぎしとした痛みが生まれる。しかし、そのあちこちが正確にどこなのかを確認している余裕はなかった。


「―――今夜は全く、良い月だ」


 声がする。
 ぼやける視界の中、数メートル先、ほんのさっきまで自分がいた場所、つまりは―――
 あいつがいるはずの場所から。
 しかし。
「まあ今夜どころか、こっちじゃ、大体いつもこんなもんなんだろうけどさ?こんな風に、空の全てに、雲意外の何物も月を遮るものがないんだって事を、お前らはもっと感謝するべきなんだよ。それはけして、お前達が思っている程には永遠に保障されたものではありえないのだから―――俺達の、かつていた場所が、そうであったように、な」
 軽快な口調。よどみなく流れる言葉。言葉を紡ぐことそのものを楽しむかのような色が滲んでいる、その声。
 誰の。
 誰の声だ?
 今、そこにいるのは、
 目の前にいるのは、
 一体―――誰だ?
「そんな顔をするなよ、少年。…実際、そんなに変わったわけじゃあないだろう?ただ―――」
 嘲笑じみた気配の笑いに語尾を震わせ、影が言う。
 夜空の帳に穿たれた虚ろのごとき、凶々しき金色の月。
 その光を背に負い、塗り潰された、黒の影。
 その内に―――


「ただ、俺が、ジャックではなくなったというだけの話だ」


 それはまるで、夜そのものを凝り固めたかのように。
 影の内には、月の金。

 その、月の瞳を歪め―――

「友情ごっこは楽しかったか。…だがそれももう、終わりだよ。ここからは―――」

 『ジャック』は、嗤う。


「愉しい愉しい、皆殺しの時間だ」



 ―――流れた夜風に、その黒髪が、影の色のそのままに―――揺れていた。