3.

『本日の一時間目は自習です』
 授業の開始時刻も15分ばかり過ぎ、さすがに教室のざわめきにも疑問の声が目立ち始めていた頃、来るはずの者とは別の教師がやってきて黒板に印したのはそんなそっけのない一文だった。だがそれは教室一杯の生徒たちに歓声をあげさせるには何より覿面な効果を持っていて、廊下の端まで届きそうなその喜びの叫びを静めるのに教師は慌てて※自習は席について静かにするように、とあまり効果があるとも思えない追記をする羽目になった。
「ハ・ヤ・トっ。どーした?顔が暗いゾっ。せっかく自習になったってのに、もっと嬉しそーにすればっ?」
「ほっといてくれ…。僕は元々こういう人間なんだよ」
「あらま感じ悪うい」
 クラスメートのビス子のあっけらかんとした明るさも今はただただうっとおしい。いやそれは普段からだが。ハヤトの今のどんよりした気持ちは自習の知らせなどでは晴らすことはできないのだ。というよりは完全に逆効果である。なぜなら今日の一時間目の授業、英語が自習になることはとうの昔に分かっていたからだ。
 英語の担当は問題の教師、DTO。そしてそのDTOを早急に捕まえるべくハヤトは朝一番で職員室の前に貼り付いていた。だが待てど暮らせど標的は姿を見せず、どころかなにやら部屋の中の空気がおかしくなってきた。案の定その原因はハヤトの待っている不良教師で、しかしさすがに自分の机の上に置き手紙一つ残しての無断欠勤、というのは前代未聞だったらしく、他の教師たちの間にはちょっとした混乱が広がっていた。書き置きの中身を知りたかったがその時既に一時間目開始5分前になっていて、別のクラスの授業に向かう教師にあえなく追い立てられてしまいそれはかなわなかった。ゆえにハヤトの心は暗い。昨日起きたもろもろの事を考え合わせればある程度予想が着いた事態ではある。あるのだが、それでも信じたくはなかったのだ。いや、信じていたかったと言うべきか。
 あの教師。
 DTOのことを。









「DTO?」
 首をぐきりと90度近く傾けてユンタが繰り返す。この男はどうも一々動作が大仰だ。
「アルファベットで?それが先生の名前なんか」
「はあ、そうなんです。本名かどうかは知りませんけど」
「個性的さ〜」
「まあ…そうですね…」
 それで片付けることだろうか。
 ツッコミはとりあえず飲み込むことにした。先程ようやく互いに自己紹介を済ませたばかりの会話相手の性格をハヤトはいまいち判りかねている。自分より大分年上のはずなのだが(19だと称された)いったいどこまで事態を理解しているのだろう。どうも暢気というか緊張感がないというか。まあいまひとつ現実感を感じられないという点では自分も似たようなものなのだが。
「で、その個性的な名前の先生さんが、ハヤト少年にこの謎のアイテムをよこした張本人と」
「はい…」
 ユンタの手には、夕方DTOからハヤトに渡された例の『時計』があった。ハヤト自身の手で胸ポケットに入れた時と、それはなんら変わりのない鈍い輝きを見せている。
「何の変哲もない時計に見えるけどなぁ」
 遠慮なく手の中でそれをぽんぽんと弾ませながらユンタが先程とは逆方向に首を傾げ、ついでにそのままぐるんと回してみせた。
 先程は疑問を持ったのだが、文字通りフタを開けてみれば『時計』はやはり特に問題もなく時計であった。ややアンティーク調の曲線をも持った針と算用数字。色も外側とあまり変わりないくすんだ金属の色をしている。
「僕にもそう見えます…けど、なんか、今日のこの事態に何かの原因があるんだとするんなら、これの他にはありえないと思えるんですよね」
「まあなあ」
 そこで、向き合って座った二人の少年は同時に同じ方向にぎこちない視線を向けてどちらからともなく、漏らすような溜息をついた。
「なんて言うかね。明らかにこう、日常と地続きになってない感じがするもんなぁ。うん、気持ちわかるさ」
「単なる通り魔とか変質者だったらまだ良かったんですけどね」
「や、それもあんま良くないと思うさ」
「そうですか?分かりやすくていいじゃないですか」
「…そおいう問題?」
「ユンタにツッコミさせるなよ、お前…」
 とうとう耐え切れなくなったのか、ずっと沈黙していたリュータが会話に割って入って来た。ただその声は、ボケ同士のやりとりを聞き続けたせいだけでもなくぐったりと疲れている。
「リュータさんどうしたんですか?さっきから黙りっぱなしで」
「もっとくつろぐがいいさ。ほれ遠慮なく」
「そもそも俺の部屋だよここは!!」
 哀れな家主が手に持っていたビニールテープの玉を床に叩きつけた。
「つーかなんでんな暢気に会話してられんだお前らは!状況分かってんのか!」
 リュータからしてみればユンタもハヤトも状況をわかっていないのは同じらしい。ハヤトはやや釈然としない気分になった。
「暢気とは失礼さ。人がこんなに真面目に聞き取り調査をしているというのに」
「会話の内容がなんぼ真面目でも状況の把握とイコールにはならねえんだよ!俺が言ってるのは、」と、リュータは先程二人が溜息をついた方を指差して言った。
「『これ』を放置したままなんでそんな平然と歓談してられんのかってことだ!」
 指差された『これ』を見てまた、どちらからともなく溜息が二人の口から押し出される。
 『これ』。  すなわち今、こうして何が悲しくてか夜中に男3人顔を突き合わせて会談している原因――ハヤトを襲った謎の人物。
 それが、リュータの家のフローリングに寝転がっていた。
 いや、正確に言うと転がされていたのだ。未だに意識のないそれを、担いでこの部屋に運び込んだのは他でもなくここにいる三人だった。リュータは最後まで文句を言って抵抗したが、他の二人がさっさと協力して運び始めるのを見て結局放り出せずに手を貸してしまった。しかも運び込む先は自分の家。実に損な性質である。一応着いて即手足を縛って自由を奪いはしてあるがそれで安心できるのかは他の二人はともかくリュータにはとうてい信じられなかったようで、それがつまり彼が先程まで黙りこくって背を向けていた原因だろう。目を放すのが不安だったのだ。
「縛ってあんだからへーきだって」
「梱包用テープで全てが解決するとはとても思えん…!」
「だからって別に、そんなずっと愛しいもののよーに見つめていたから何が解決するってわけでもないさ。ここはひとつ気持ちを切り替えてだな」
「自分ちの床にこんなもんが転がってて何をどう切り替えろってんだよ!!…そもそも、ここにこれを持ってくる事自体がおかしいんだっての…。特にハヤト、おまえなあ、こいつに殺されかけてんだろ?なんでわざわざ。ふつー遠ざけたいだろ?そう思うだろ?」
「それは」
 それは自分でも疑問に思うところだ。
 つい一時間ほど前の体験は、はっきり言ってトラウマ級の怖さと衝撃だった。口に出してはいないが、未だに手足の体温が戻らず、芯に痺れのようなものが残っている。首を絞められたのだからそれも無理はないのだが、そんな自分をハヤトは少し情けないと思った。だがだからといってその悔しさをどうにかしたくてあえて原因をそばに置いておこうと思ったのかといえばそんなことはない。そんな複雑な感情が働いたわけではないのだ。ただ。
「だって…」
 もう一度横たわるものを見る。その顔を。
 マスクは外されたままだった。
「放り出しておくわけにもいかないじゃないですか。こんな…」
 ハヤトはそこでなんとは無しに言葉が続かずに黙った。リュータも次の台詞が出ない。本当はわかっていないわけではないのだ。ユンタが、三人の複雑な気持ちを代表するように、うーんと唸った。
 ものものしい意匠と存在感を持った戦場の仮面。だがその下には。
「…ハヤトと、同い年くらい?」
 ユンタがぽつりと呟く。
「もう少し下かもしれないです」
 ハヤトが答える。
「…襲って来たことに変わりはねぇだろ」
 むくれたように、リュータが言う。それきりまた、三人とも言葉を途切れさせた。
 その見つめる先には、まだあどけなささえ見えるような、三人とそう違わない少年の顔があった。