「ハヤトっ!」
 リュータは自分の目を疑った。目前の小柄な身体、その手の中の『時計』を中心としてみるみる内に周囲の空気が歪み、軋み、いびつな形に渦を巻いていく。
「ばか、よせって!」
 考えるより先に前のめりに動いた体を後ろから羽交い締めにされる。脳裏に、昨日気絶したハヤトを見つけた時の周囲の惨状が思い浮かんだ。今起ころうとしているのもそれと同じことだとしたら、むしろ危ないのは自分たちの方なのかもしれなかったが、それでも、目の前の光景を捨て置く事などとうてい無理だ。
「は、離っ…」

 …ばちっ。

 振り解こうと身をよじる、リュータの耳に不吉な音が聞こえた。見ると、歪む空気の渦の中に、ひび割れのような光の線が幾筋も現れては消え、短い周期の中、次第に数を増していっている。
 火花?
 ということは。
「やべ…」
 頭の後ろでユンタが呟くのが聞こえた。だが、もうこの時点に至ってはどうすることもできない。
 逃げることも。

 ばぢばぢばぢっ!

 大きくなった火花が、音と共に、やおら盛大な光を放ち。耐えられずにリュータはぎゅっと目を潰った。
 瞼を突き抜けて、光が真っ白に明滅する。
 だが。
「―――?」
 それ以上、いくら待っても何も起こらない。
 おそるおそる目を開くと、まず目に飛び込んで来たのは闇。一瞬混乱したが、すぐに蛍光灯が消えているだけだということに思い当たる。先程の現象のせいなのだろうが、しかし、被害はそれだけで済んでしまったのだろうか。あの状態で?
「…な、なんだったんさ?」
「…わかんね」
 ユンタが呆然と呟いて、ようやく羽交い締めにしていた腕を開放した。同時にリュータは、はっと我に返る。
「そうだ、ハヤト…!」
 部屋は未だに暗く、足元さえよく見えない。リュータの心臓は嫌な感じにごとごとと揺れた。見えないというのは良くない。無事なのかどうかが、これでははっきりとはわからない。
「くそ、なんで電気が消えんだよっ」
 おそらくその辺りに電灯があるのだろう上を見上げて毒づく。すると、まるでそれに応えるようなタイミングで、じじっと音をたてて蛍光灯のグローランプだけが頼りなげな光を取り戻した。
 ハヤトはその場にしゃがみこんでいた。
 こちらに背を向けていたが、見たところ何の問題もなく無事のようだった。しかし、ひたと固まったように微動だにしない。その視線はすぐ側の一点に注がれている。
 そこにあるもの。
 目にしたとたん、リュータも同じように硬直した。背後で、ユンタが息を飲む音が聞こえる。
 広がる薄闇。六畳に乱雑にものが置かれた、見慣れたはずの狭い部屋が、異界の空気を流し込んだかのような違和感に包まれている。
 それを生み出しているのは、ハヤトの目の前、たいして離れられる距離はないので結局は全員の目の前になるのだが、そこに、
 しっかりと両の足を床に踏み締めて佇む、
 まるで人のような。
 あるいは人ではないかのような。
 じじじ、と、蝉が蜘蛛の巣に搦め捕られた時のような唸りとともに、蛍光灯が明滅し、その姿を――雪の色に逆立つ頭髪以外は、周囲の闇に沈むような佇まいを、映写機で映し出された薄っぺらな画像のように、現実味もなく浮かび上がらせた。
 誰も、声もない。
 光は明滅を繰り返し、やがて、普段よりも一段階低い光度で安定した。

 ぴたりと閉じられた瞳が。
 すうと、開かれた。