そうだ。
 お前に、名前つけてやるよ。
 どんなんがいいかな?
 ええと…
 じゃあ、









 7.


 綺麗な瞳だ。
 ハヤトは思った。
流れる血潮。または、燃え盛る炎。そのものの色を持ちながら、それらの持つイメージとは全く掛け離れた、冷たく凝った硝子玉の質感。それはまるで地平線近くに顕れる、宵入りの端の望月のようだった。
 闇に宿りし、熱持たぬ緋。
 その色がゆっくりと動き―――ハヤトの姿を、捕えた。
「!」
 場違いな感傷から我に帰る間もあらばこそ。
ハヤトの体は再度、足元だった場所へと猛烈な勢いで叩き付けられた。
「ハヤト!!」
 リュータの悲鳴じみた叫び声は背中の衝撃と重なり、ぶれたようにどこか遠ざかって耳に届く。今度はとっさに庇ったお陰で何とか頭をぶつけずに済んだが、その分背中に全ての負荷がかかって息が詰まった。必死に目を開けると、ぎょっとするほど近い位置で自分を覗き込む緋が見える。そこに映る、同じ色をした自分の顔も。
 今度こそ、もうだめかな。
 まさかとって喰われるなんてことはないだろうけど。
 そんな漠然とした思考が頭に浮かぶ。先程からなぜだかやけに感覚が遠く、霞がかかったようにはっきりとしない。
 未だに、夢の中にでもいるような―――
 いや…ついさっき、本当に夢を見ていたような気がする。

 誰かが、
 あれは、


「違う」


 一瞬、それがどこから聞こえたのか認識できなかった。
 小さな、独り言のような―――いやそれは実際独り言だったのだろう、おそらくはハヤトの耳にしか届かなかった呟き。
 唐突にすっとクリアになった五感、その視界の中に、
 緋色の瞳の奥の、確かな感情の揺らぎが映る。
 (今…喋っ)
「ふっ!!」
 次の瞬間、気合いを篭めるような呼吸音と共に、視界がぱっと開け天井が目に入って来た。直後にそこを猛スピードで何かが横切る。何が起こったか解らず目をしばたいたハヤトは、肩にのしかかっていた重さが消えた事に気がついてあわてて半身を起こした。
「ありゃ、避けられた」
 片足を中途半端に上げた姿勢のまま、場違いなほど脳天気な声でユンタが言った。
「すげーや、やっぱふつーの人間じゃねーのかなぁ。…あー、悪ぃけどお前、ヒトの目の前で暴力に走るのは止めて貰えんかね?」
 説得じみたことを語るその声音はしかし、脳天気どころか、今やはっきりと弾んで聞こえる。
「義を見てせざるはなんとやら。…止めなきゃなんなくなるだろ」
 ユンタは言って、にやりと笑みを浮かべた。
 繰り出された蹴りを避けて後ろに引いていた赤目の少年がゆっくりと立ち上がる。顔には何の表情も浮かんでいない。視線だけが、自身を攻撃してきた者へと微動だにせず合わされている。
「ゆっ…ユンタさん?」
「下がってな、ハヤト!」
 言うが早いか、低い姿勢で突進したユンタはハヤトを飛び越えて少年に肉薄した。加えられた一撃は、しかしするりと難無く躱される。続く二撃、三撃も同じように躱した少年は四撃目の拳をを片腕で受け止めると、そのままさしたる力も篭めていないような動作で相手の体ごと反対方向へ弾き返した。弾かれたユンタは数歩たたらを踏んでどうにか持ちこたえ、口笛をひゅう、と鳴らす。
「こりゃマジですげーわ」
 えええー…。
 攻防の真ん中からどうにかこうにか横の壁まで逃れたハヤトは、あっけにとられて眼前の光景を見詰めた。何がどうしてこんな事になっているのだろう。…というか、この人、なにか…楽しんでない?この状況で。
「この馬鹿!こんなとこで暴れんなっ!」
 リュータが抗議の声を上げた。無理もない。先程から、箪笥やら何やらの家具類が微妙に被害を受け始めている。
「不可抗力さー」
「黙れこの喧嘩マニアが!」
 やっぱりか。
 暢気に受け答えしながらもユンタは着実に相手を後ろに追い詰めて行く。相当場慣れしているようで、その攻撃にはいささかの躊躇いも見られない。対する少年の方は防戦一方でじりじりと退き続けるばかりだ。その内に背が壁に嵌まった窓硝子にとん、と当たった。もう後がない。というかこのまま状況が進むとその硝子は割れるだろうと思われるのだが…いいのだろうか。
「これで終いさっ!」
 お構いなしのようだ。
 ユンタは拳を固めると、ここに至ってもまだ表情の変わらない少年に向かってそれを振り上げた…
「じゃーねえっ!!」
「おぶっ!?」
 怒声と共にリュータの投げたビニールテープの玉が、ユンタの後頭部にクリーンヒットした。結構な重さのあるそれの衝撃にユンタはたまらず頭を抑えて悶絶する。
「おまっ…何すんじゃこんな肝心な時にっ!」
「なぁにが肝心だっ!そんなんおめーが楽しんでるってだけの話だろーが!!」リュータはユンタにそう怒鳴ると、少年の方に目を向けて言った。
「…こっちの言葉が通じてんのか分かんねえけど…聞きてー事が山ほどあんだよ。
 …お前、何もんだ?なんでこいつを襲ったんだ!」
 リュータがハヤトを指差す。そうだ。…それを知らなければ。
 少年は答えず、無感動に首を動かしてハヤトを見る。
 再度視線が合わさった。
 ハヤトは無意識に先程見たものをその瞳の中に探そうとする。しかし、つくりものめいた質感に閉じ込められてか、それを見つけ出すことはできなかった。
 そのまま一瞬の、張り詰めた沈黙。
 それが過ぎた時に起きた出来事は、…冷静に考えれば、予想してしかるべきだったのかもしれないが、その時の彼らには思いもかけない不条理な展開だった。
 少年は、何がどうなってかいつの間にか彼の足元に転がっていた、昨日彼の顔から外されたマスクを一瞬の内に足で跳ね上げると、反応の遅れたユンタから身を翻しながらこれも一瞬の内に顔へ押し当てた。どういう仕組みなのか後ろでパチンと留め具が勝手に締まる音がした。したと思ったその時には、ハヤトの視界に入る景色は勝手に変化している。
あっけにとられたようなリュータの顔が、すぐにさっと青ざめるのが見えた。
「てめ…っ、離しやがれっ!!」
 首が動かない。反射的に持っていった手が自分の物ではありえない腕に触れる。微かに下げた頭がこつんと硬い感触に触れた。
 多分―――さっきのマスクだろう。
 つまり、またというのか、なんなのか。
 ハヤトは、少年の手に捕まってしまっていた。