「はっえー…。なんだよ、やっぱ本気じゃなかったんじゃねーかー」
 ユンタはさしあたってとりあえず、胸に浮かんだ不服をそのまま口に出してみた。しかしやはりそれには、自分でも判る程についさっきまでの暢気さが消えていた。一歩足を踏み出しかけたが、少年の腕がゆっくりとに締まるのに気付き動きを止める。
「まいったね、どーも」
 リュータも、捕まっている張本人のハヤトも青い顔で押し黙っている。騒ぐのは得策でないと判断したようだ。リュータはともかくハヤトの方はまさに今自分が危険であるという状況下で見上げた精神力だ。単に首を締められて声が出せないだけかもしれなかったが。
 それにしても。
 ちょっとはしゃぎ過ぎただろうか。この状況には少なからず自分にも責任があるかもしれないな。ユンタは思った。どうにかして、助け出さないと…いや、しかしどうしよう。
 だが、そんな思考も空しく。

「お前らの相手をしている暇は無い」

 今更、先程の質問に対する答えなのか。
 マスクの下からでもはっきりと、聞き間違いようもなくきっぱりと発せられた言語。それは目の前に立つ赤目の(もう見えないが)少年が少なくとも一定以上のコミュニケーション能力を有している確たる立証ではあったが。しかしそれが顕した内容は有無を言わさぬ拒絶。そしてそれに対して、こちらが何の反応を返す間もなく。
 少年はバックステップで窓硝子を突き破り、そのまま、深まり始めた闇の中へと身を踊らせた。
 ハヤトを腕に抱えたまま。
 ちなみにここは3階だ。
「う…わああああああ!?」
 さすがに悲鳴が上がり、それもあっと言う間に下方向へと遠ざかって行く。
「っ…」
 リュータが声もなく窓に駆け寄る。そのまま自分も飛び出しかねない勢いでつんのめるのを、ユンタが慌てて押さえ止めた。
「馬鹿、お前まで落ちてどーすんだ!」
「ハヤ…」
 しかし。
 ――がしゃん!
 やや前方下の方で何かが勢い良く壊れる音がしたかと思うと(あとで分かったことだが、それは隣の民家の屋根瓦が踏み砕かれた音だった)、月明かりの中、黒い塊――まごうことなき、今落ちた筈の二人の影が、
 3階の部屋の二人の目線と同じ高さに浮かび上がった。
 そしてそのまま、消えては浮かび、消えては現れを数回繰り返し、やがて遠ざかっていく。
「と…」
「飛んだな」
「違う、跳んだんだ!」
「おお、そうか」
 どちらにしても。
 やはり普通の人間にできる芸当でないことは確かだ。
「…鮮やかなもんさね」
 割れたガラスの破片に触れないように慎重に身を乗り出しながら、ユンタは呟いた。
「さっきの喧嘩の時の動きといい…自然に身についたもんじゃないって感じさ。どっかで訓練でも受けてたのか」
 あるいは。そもそもの存在、そのものが…
 ざわっ、と血が動くのを感じる。
 こういうのは久しぶりだな、とユンタは思った。まるで、あの人に会った時のことを思い出す…思わぬところで面白い物に出会ってしまったものだ。
 …なんつったら、ハヤトに申し訳ないけどなー。
 そこでふと隣に目をやって、ん、と眉が寄る。
「…大丈夫か?おい」
 見れば無言で佇むリュータの顔には、どこか大量出血でもしたのかと言うが如くに血の気がなかった。肩に手を置かれて、夢から帰ったようにびくりとする。
「あ」やけにゆっくりとした動きで、覗き込んでいるユンタの方へ顔を向ける。
 迷子にでもなったような目だった。
「いや…大丈夫」
「うそこけお前」
「…大丈夫だって!」
 打ち消すように言ってぶるっと首を振り、しかし顔色は青いままで戻らない。その様子を見て、ユンタはふうむ、と唸った。
「恋かね、少年」
「は?」
「やー、なんでもない。ああ一応言っとくけど、あいつなら大丈夫だと思うぞ」
「え…」リュータの顔がばっと上がった。「どういう…あいつって」
「もちろん、ハヤトな。まあ別にマスク君の方でもいいけど。つまりはハヤトが傷つけられるとか、殺されるとか、そーゆー最悪な事態には多分ならないだろうってことさ」
「なっ…なんでそんなことが言えるんだよ」
「勘」
「……」
「待て!待て待て早まるな!ちゃんと根拠ありますから!」
 ユンタはごほん、とわざとらしい咳ばらいをすると、目付きをいくらか真剣にして言った。
「まずあのマスク君は脳神経ぶっちぎれた殺人狂とかってわけじゃない。とりあえず言葉は通じるみたいだし、何よりさっき俺が襲いかか…もとい、勝負を挑んだ時に、状況を認識できるまでしばらく反撃をしなかった。これはわりと思慮深い反応だな。少なくともアホにはできん」
「…ふうん、で」
「そんな奴がわざわざ重たい人間一人抱えて逃げるってことは、そりゃ安全に逃げるための盾だったってことだろ。だったらそれ以上余計なことなんてしないだろうし、用が済めば適当に開放してくれるさ。いやよかったよかった」
「そうか…わかった」リュータは、…一見すると鷹揚そうに、頷いた。
「それはつまりお前が無駄につっかかったりしなければハヤトは連れてかれなかったってことだなコラ!」
「あああすいません!ごめんなさい!謝りますから許してーー!そんなんで殴ったらさすがに死…」
 ユンタの懇願の声も空しく、鈍い打音が荒れた部屋の中に響き渡った。
 だが、二人とも、現時点この場において最も重大な問題に、まだ気がついていなかった。
 謎のスパークにバトルの余波、さらにガラスの割れる音で、事態が都会の無関心に頼れるラインを越えてしまっていることに。
 二人が間一髪ご近所と管理人の追究の手から逃れるのは、これより3分後のことである。