8.

「は……

 ――――っくしゅん!!」

 さ…
 寒っっ!
 寝てる時って、なぜだか起きてる時にはどうということもない寒さが身に染みるんだよなあ…やっぱり上着を着ておくべきだったな、しまったなあ。…いや待て、そもそもなんで僕はわざわざそんな寒い中で眠っていますか?家出中でもあるまいにそんな謂れはないぞ。全くない。いくら最近不本意にも親に言えない事情を抱えているとはいえ…
「…はっ」
 そこでハヤトはようやく本当に覚醒した。
 開いた目に、ひび割れたコンクリートの寝床が映る。
 がばっ、と身を起こすと、強い風に髪がばさばさと引っ掻き回された。あたりはまだ暗い。障害物の少ない視界の中で星のちらつく空の範囲がやけに広く、風の強さと併せてどうやらここがある程度の高さのある建物の屋上らしき場所であることが解った。
「さ…寒い!起きてもやっぱ寒い!」
 脳味噌は凍りそうではあったが、それでも気を失うまでのことが順繰りに思い出されてくる。記憶はとんでもない上下運動を何度か繰り返したあたりで途切れていた。空の具合から見て、余り時間は経っていなさそうなので(丸一日以上経っていなければだが)おそらくそのままここまで連れてこられたのだろう。
 あいつに。
 ――そうだ、
 あいつは…
 そこまで考えて、ハヤトは、特に根拠もなくばっと後ろを振り返った。
 そこに。
 おざなりな高さの、錆び付いたフェンスのその上に、両の足を踏み締め。
 夜に浮き立つ白い髪を、風に靡かせて。
 こちらに背を向け、じっと眼下に広がる景色を、眼下に広がる街を、
 眼下に広がる闇を眺めている。
 果たして―――そいつは、そこにいた。
 ぞく、と背筋に、寒さとは別の種類の震えが走る。
 ハヤトが目を醒ましたことに気付いていないはずはないだろうが、振り返る気配は全くなく、ただじっと不安定な足場の上に立っている。ハヤトはどうするべきか一瞬遒巡し――意を決して立ち上がると、一歩、その背中に向けて足を踏み出した。
 途端に視界からその姿が消える。
「え」
「…お前には聞きたい事がある」
「どえぇええっ!?」
 突然真後ろから成された問い掛けにハヤトは思わず前方につんのめるようにして跳びすさった。一体いつ何をどうしたのか、その背後に移動していたガスマスクの少年は、そんな相手の様子に一切構わず、淡々とした調子で言葉を続けた。
「『それ』をどうした」
「…へ?」
 マスクを通した、ややくぐもった声。しかし言われた意味が解らず、それがどれやらなになのやらとハヤトはしばし間抜けた顔で立ち尽くした。少年はやはり全く構わず、とりあえず害意はないということの主張のつもりかひどくゆっくりとした動作でこちらに近づくと、ハヤトの垂らした右拳に手をかけた。
 金属と、革だろうか。ざらりとした、その手の重たい感触。
 そして、それをそのまま目の高さにまで持ち上げられた。
「…あ」
 そこにあったのは、例の時計だった。
 どうもずっと握り締めたままだったようだが…しかし、何故今まで気付かなかったのだろう。第一気絶していた間も落とさなかったのか?それは…不自然なような気もするが。
 先生から預かった時計。
 内部に刻まれた文字。先生が作ったかもしれないもの。
 そして――あの時と、先程の現象。
 目の前にいる、正体不明の存在。
 これが――
 やはり。こいつと――先生を、繋ぐのか?
 ハヤトは、目と鼻の先にいるそいつの姿を、改めてじっと見つめた。
 こうして並んで立ってみると、自分も小柄な方だが、さらにそれよりも小さいだろうか。しかし華奢だとか、脆弱だとか言った雰囲気は全くない。何か、強固な安定感のようなものが感じられるその佇まい。
 隙がない、というのだろうか。
 いっそ、作り物めいてすらいるような。
 じっとマスクに嵌まったふたつの硝子を見つめる。
 しかしいくら目を凝らしても、その奥にあるはずのものは見えなかった。
 一瞬迷い。

「道で拾ったんだよ」

 ハヤトは、嘘をついた。
「君と会ったあの日に、あの道でね。だからこれがなんなのかはぜんぜんわからないよ。もしかして君の持ち物なのなら今すぐにでも返してもいいよ、というか正直いらないし」
 早口で言いつのり、しかしまずいだろうか、とちらとハヤトは思う。一応預かり物なのだ。だがどうやらこれが一連のトラブルの原因であることに間違いはない。手放せるなら手放したいと思うのも本音である。この状況でそう思うことに、文句を言われる筋合いもないだろう。
 それに。
 ここで先生の名を出すのは―――
 おそらく猛烈に、まずいことになるような気がする。
 それは避けたい。
 …って言っても、さすがにこの言い訳は無理ありすぎるか?
 しかし少年は溜息をつくと(肩が上下したのでおそらくそうだろう)、

「そんなものはいらない」

 少し意外な言葉を吐いた。
「…道理で、違う」
 そして独り言のように呟くと、興味を失ったように取ったままだった手を離し、ハヤトの脇を通り過ぎて再びフェンスの方へと向かう。
「え、ちょ…」
 …なんで?
「ま…
 待ってよ!」
「お前にも、もう用はない」
 「きっ、聞きたい事があるんだよ、こっちには!」ハヤトは声を張り上げる。このままじゃあ、わからないことが多すぎだ。

「君は…じゃあ、『この時計』を狙って…というか、目的に、僕を襲ったんじゃあないのか?」
「そうだ」
「そうなのかよ!って…いや待て、それどっちの肯定?」
「お前が、それを持っていたからだ」少年は律義に答え直した。
「俺は、それを持っている筈だった奴を追ってここに来た。
 …しかし、それは今お前が持っている。だから俺はもうそれに用はない」
 …なるほど。
 つまりは、この『時計』を目印に、持ち主の方を捜していたという訳で…確かにそれなら今、これは本来の持ち主でないハヤトが持っているのだから、もうどちらにも用はないはずだ。
 …あのときの、『違う』というのは、そういう意味か。
 やっぱり心底とばっちりだよ…。
 しかし。
 だとしたらやはり――こいつの目的とする人物というのは。
 あの人と、いうことか。
 ハヤトは、ごくりと喉を鳴らした。
 その予想が当たっているのかの確認を取りたいが、『時計』のもとの持ち主を知らないふりをしてしまったのにまさか直接そうと聞くわけにもいかない。だが…おそらく、間違いはないのだろう。
 だとしたら。
 あの人にたどり着いた時…目の前にいる、この少年は、
 何を、する気で、いるんだ?
 (なんて…結論は既に出てる気がするけど)
 無意識に自分の首に手をやりながら、ハヤトは思う。自分が狙われる理由はどうやらなくなった(というかもとからなかった)ようだが―――しかし、これっきり知らないふりをするというわけにもいかないようである。
 全く、恨むよ、先生…
 とその時、前方で、フェンスがかしゃんと鳴る音がした。
 考えに埋没していたハヤトがはっと顔を上げると、目を醒ました時と同じような光景が視界に映る。少年が再びフェンスに飛び乗ったのだ。
 もう完全にこちらには興味を失っているようで、その視線はじっと眼下の景色に注がれている。
 そして、まるで、道に落ちている小石を跨ぐかのような気安さで、
 ひょい、とそこから飛び降りた。
「いぃっ!?」
 慌ててフェンスに駆け寄り下を見ると、一瞬目眩がするほどの高さを真っ逆さまに落ちて行った体が――隣の建物に着地し、そこから、さらに隣の建物へと飛び石でも踏むように移動して行くのが見えた。
 おいおい…
 さっきの、2、3階くらいの高さならまだともかく。
 う…いかん。思い出してしまった…
 呆れと共についフリーフォールの記憶も蘇らせてしまい、ハヤトはげっそりとその場にしゃがみこんだ。
 …ん?ちょっと待った。
「やばっ!」
 よく考えたら、今あいつがいなくなっちゃあこっちから捜すのなんて絶対無理じゃん!
 ってもう遅いけど。
 下を見ても、勿論その影も形も既に見えなくなっている。
「…馬鹿だ…」
 ああ、とハヤトは一人頭を抱え、がしゃんとフェンスに背を預ける。
 …しかしまあ、だからと言って、さっきあいつを引き留めていたところでどうこうできていたというわけでもないのだろうが。まさか再会の待ち合わせの約束をするというわけにもいかない。あきらかにそんなかわいらしい状況ではないし。
 どうしよう。
 いやどうしようもないんだけど。
 仕方ない。…ここはひとつ…
「…帰ろう」
 そう。今は他人より自分の心配をしなければいけないのだった。あの二人にもきっと心配をかけてしまっているだろう。空を見ると、既にビルの谷間が白みはじめている。もう夜明けが近い時間なのだ。
 あ。てゆうかこれ…
「無断外泊…?」
 びょおお、といっそう冷たく感じられる風を背に浴びながら、ハヤトは、自らの身に間近に迫った危機へ向けて、両親への言い訳のバリエーションを必死に考えていた。