「…そうは言ってもね」
 単純な理屈だけで片付けられるほど、人の心は簡単なものではない。
 一晩考えてもやはり答えは変わらず。
 捨て置けないものは、捨て置けない。
 …しかし。
 一晩考えてもやはり、手だてがないことにも変わりはなかった。
 DTOの行方も、さらにあの少年の行方も全く見当がつかない。あの身なりと行動でうろついていては物凄く目立つような気がするのだが、よほどうまく立ち回っているのか、学校などでも噂の一つも流れている様子はなかった。
 となると、もう一介の中学生には、手も足も出ない。
 手詰まりなのである。
 せいぜい、考えつけることといえば…。
「事件の解決には現場百回」
 ハヤトは、先程から前に立っている建物の、傾き始めた日を背にしたシルエットを見上げながら、そう独り言を呟いた。
「なんちゃって」
 ………。
 …我ながら無駄な行為だとは思うけど。
 何か、手掛かりの一つでも残っていることを期待して…。
 昨日、中から出るときに鍵を壊しておいた非常用のドアを注意深く開くと、ハヤトは再び、光のない廃ビルの内部へと足を踏み入れた。








「綺麗な夕日だなぁ」
 元々は何のビルだったのだろうか、この回りのそれより若干高い位置にある屋上から見る景色は、暗い時にはよく分からなかったが、遮る物が少なく、茜色に染まり始めた空の遠くまでがとてもよく見渡せた。普段ごみごみした街の中で暮らしているとなかなか味わえない開放感があり、思わず深呼吸の一つもしたくなる。
 肝心の手掛かりは何一つとしてなかったのだが。
「…分かってたけどさ」
 フェンスにかけた手に体重を乗せ、はあ、と盛大な溜め息をつく。かなり虚しい。やはりそう都合良くことは運んでくれないようだ。
 …本当に。
 こういう時は自分がいかにちっぽけな存在であるのかということを思い知らされているような気がする。特別なもの、役に立つものなど何一つ持たない、その他大勢の人間の、子供。
 もがいてみせてもそんなことは、この世界の事象の億分の一も揺らがせることはない。
 本当に、息が詰まって、嫌になる。
(…そういえば)
 前にも、こんなことを考えていた時があったような気がする。
 …『あいつ』が突然目を醒ます、少し前か。
 あの時、時計を手にして教師の名を呼び―――それが、おかしな現象を呼び起こし、あいつの目を醒まさせた。そのことは、どう見ても間違いないだろう。
 ハヤトは、ポケットに入れていたそのものを取り出した。
 しかしそれなのになぜ、あいつはこれを要らないと言ったのだろう。ただの目印だったと言っても、あの状況を見る限り、あいつ自身とも、関係がない訳はないように思えるのだが。
 もしかして。
 その関わりは、あいつ自身も、知らない位置での…?
 握りしめた金属の固まりを、思わず、まじまじと見詰める。
 ―――と。
 今は何の変哲もなく見える時計から―――ほんの一瞬、携帯電話のバイブレーションのような、小さな震えが、掌の上に伝わったような気がした。
「…?」
 が、感じとれたのかどうか判別する余裕もなく、その感触はすぐに消える。
 …気のせい、か?
 しかし、ハヤトが訝しげに首を傾げるのと同時に―――
 後ろの方で、何か重たいものの落ちる音が響いた。
「!?」
 びくりとして振り向くが、ちょうどすぐ後ろには出入口があり、その反対側は死角になって何も見えない。しかし、その落ちてきたと見られるものの気配は、ゆっくりと移動し、こちらの方へ回り込んで来ていた。
 …おいおい。
 これって、もしかして、まさか…
 やがて気配の主が、完全にこちらに姿を現した。
 マスクは首に掛けられている。おそらくは今外したところなのだろう。
 すでに朱い色を帯びているとはいえ―――日の下では、初めて見るその顔。
 照らす光のそれと同じ色をした瞳は、呆然と立ち尽くしているハヤトを視認したとたん、
 隠しようのない驚愕の形に、小さくとはいえど確かに見開かれた。
 ―――驚きたいのはこっちなんだけどっ!!
「お前」
 気配の主――少年は、低く身構える姿勢を見せながら、窺うように眉根を寄せてこちらを見た。
「…なんで」
「え!…えーと、その、あの、ひ、久しぶり?」
 って昨日会ったばっかりだっつの!
 虚しい一人突っ込みが胸中で繰り広げられるが、もちろんそれが相手に伝わるわけもなく。
 しばし痛々しい沈黙の時が流れる。
 しかしまさか。手掛かりが欲しいとはそりゃ思ったけど。まさかまさか張本人がのこのこと現れるとは…なんでまたわざわざここに戻ってるんだ。…ひょっとしてここを拠点にしてるってことなんだろうか。それはまあこんな街中で潜める所なんてそうそう数はないんだろうけど…だったら昨夜なんで僕をここに置き去りにしたかな。隠れ家ばらしてんじゃんそれ。はっ、まさか、実はこいつ案外バ
「馬鹿なのか、お前は」
 …………。
 先に言われてしまった。
「ばっ、バカじゃない!」
 しかもバカな返答をしてしまった。
 胸の中に、一筋虚しさの風が吹く。
「…何故わざわざ関わってくるような真似をする。
 お前には、もう用はないと言った筈だろう」
 うんざりしたような色を僅かに声音に滲ませる相手に対して、やけっぱちのような勢いでハヤトは言った。
「…だから、そっちはよくてもこっちは良くないんだって…
 僕には、知らなきゃいけないことが、あるんだよ!」
「何だそれは」
「え」
「……」
「………………」
 まさか。
 本人に直接問い質せるような質問など用意しているわけもなく…あえなく、ハヤトは絶句した。
「…………………」
「………」
「………………………ぅ」
 詰まった咽から、よくわからない間抜けな音が洩れる。
 どっ…
 どうしよう、これ。
「…………。」
 ああっ!とか言ってるうちにすでに去ろうとしてるしー!!
 いやここで行かせるわけには…
 いかない、けど。
 どうしよう、
 何かないか、
 なにか、
 な…


「な、名前っ!!!」


 少年がぴたりと足をとめた。

「名前を…えーと…まだ聞いてないな、な、ん、て…」
 言いながら、語尾が思いきりすぼまっていくのを感じた。心なしか、体も同時に縮まっていっているような気がする。
 うう…我ながら、この状況でなんて支離滅裂な…!
 ハヤトは自分の言動に、頭をかかえたい衝動にかられた。

 しかし。

 その言葉を聞いた少年は、
 振り返り、じっと、ハヤトの顔を見ていた。
 沈みかけた太陽の緋色を全身に受けて、
 瞳が―――その色彩の内に、全て滲んで溶けてしまいそうに。ほんの一瞬、揺らめくのが見え、

 そのしぐさが、
 なぜかハヤトの心にずしりと刺さり。


「ジャック」


 少年が呟いた。

 そして、すたすたと歩み寄り、立ち尽くすハヤトの手前でぴたりと止まると、
 白い髪に赤い瞳。
 首にはガスマスク。素足に巻き付けたぼろ布。鉄と皮とで固められた両手。
 ほんの少し下の目線からハヤトを見据えて、

 ジャックは、
 どこか、遠い何かを想うように言う。



「なら、お前の名前も教えろ」